日本酒の現場では、設備の進化とともに、より効率的で安定した造りが広がっています。
そんな時代にあって、静岡県掛川市の老舗蔵・葵天下(あおいてんか)が大切にしているのは、速さではなく、納得できる味をつくること。その中心にいるのが、遠州山中酒造代表取締役の山中久典社長です。
文政年間にさかのぼる歴史を背負いながら、いまもなお「もっといい酒」を追い続ける姿勢こそ、この蔵のいちばんの魅力でした。
目次
掛川の蔵に流れる、静かな熱
遠州山中酒造の所在地は、静岡県掛川市横須賀61。創業は文政年間(1818年~1830年)、現在の代表は山中久典氏。
長い歴史を持つ蔵でありながら、その歩みは単なる“老舗”という言葉では片づけられません。
「葵天下」の醸造開始から、現在に至るまで、蔵の個性を磨き続けてきました。
公式サイトには、受賞歴や商品展開とともに、蔵が守ってきた考え方が丁寧に記されています。

その思想をもっとも端的に表すのが、ブランドストーリーに記された先代の言葉「いい酒、未だ分からず」です。いい酒を知ったつもりにならず、問い続けること。
山中社長はその姿勢を受け継ぎ、自ら手間ひまを惜しまない酒造りに向き合っていると紹介されています。古いものでも、良いものは使い続ける。効率だけを目的に工程を変えない。
そのぶれなさが、葵天下の味の土台になっています。
山中久典社長が守るのは、「伝統」ではなく「納得できる味」
今回の取材で印象的だったのは、山中社長が伝統を“昔からやっているから”守っているのではない、ということでした。蔵の中を案内しながら語られたのは、どの工程も最終的には味につながるという、ごく実践的な哲学です。
なぜこの方法なのか。なぜそこまで時間をかけるのか。山中社長の説明は常に、その一杯がどう仕上がるかへ戻っていきました。
蒸米では和釜にこだわり、搾りでは古式槽を用いた方法を守る。ブランドストーリーでも、こうした工程は単なる“古式ゆえの演出”ではなく、品質のための選択として語られています。大量生産や短時間処理に寄せれば省ける苦労を、あえて省かない。その理由が明確だからこそ、山中社長の言葉には説得力がありました。

雑味を出さないための、槽搾りという選択
その熱意がもっともはっきり現れていたのが、槽搾り(ふなしぼり)の話です。
取材では、いま主流となっている自動圧搾機を使えば短時間で効率よく搾れる一方で、葵天下では、もろみを袋に入れて槽に並べ、時間をかけてじわじわと酒を引き出す伝統的な搾りを重視していることが語られていました。
山中社長にとって槽搾りは、昔ながらのやり方を残すための工程ではありません。米を無理に押し潰さず、苦味や渋みといった雑味を抑え、きれいな味わいをつくるための、明確な技術でした。
しかもこの作業は、単に「手でやる」だけでは成立しません。袋の折り方、積み方、崩れさせないための力加減――そうした細部に経験が要る、いわば職人芸です。
取材では、安定してできるようになるまで年数がかかること、以前は一人で大量の袋を扱う重労働だったことも語られていました。
楽だから続けているのではない。きれいで、なおかつ“味がある”酒にしたいから続けている。その言葉の重みが、槽搾りの工程には宿っていました。
もろみに余計なストレスをかけず、繊細な酒質を引き出すために、いたずらに効率化を追わない。
山中社長の熱意は、まさにこの“見えにくい工程”にこそ、もっとも色濃く表れていました。
40日以上かける、低温長期発酵
山中社長のこだわりは、搾りだけではありません。
一般的な酒造りが20日前後で仕上がるところを、葵天下では40日以上かけて低温でじっくりもろみを育てていることが語られました。
温度を抑え、時間を味方につけることで、香りと旨味を液体の中に閉じ込めていく。この長期発酵もまた、派手な演出ではなく、狙った味に到達するための地道な選択です。
香りを酒の中に閉じ込めるような発想が印象的でした。
前に強く押し出す香りではなく、飲み進めるほどに感じられるふくらみ。
取材で語られた「戻り香のやさしさ」という表現は、まさにその特徴を表していました。
刺身のような繊細な料理とも相性がよく、華やかさだけで終わらない飲み心地が、葵天下らしさなのだと思います。
同じ酵母でも、米が違えば酒は変わる
もうひとつ面白いのが、酒米の個性を飲み手に分かりやすく伝えようとする姿勢です。
雄町、山田錦、愛山、誉富士の酒米毎に製造された日本酒は、同じ酵母を使いながらも違う表情を見せてくれます。お食事やシーンに合わせて選ぶのも良し、また飲み比べる楽しさも自然に広げてくれます。
「飲み終えて、また飲みたくなる風味」という言葉どおり、飲み飽きしない設計が徹底されているのです。

歴史を背負いながら、未来へつなぐ
取材では、山中社長が蔵の歴史や自らのルーツについて語る場面も多くありました。
近江商人の系譜、家の歩み、そして蔵を次代へつないでいく責任。そこから感じられたのは、酒を売るというより、蔵の時間ごと手渡していくような感覚でした。
葵天下の魅力は、酒そのものの品質だけでなく、その背景にある人と土地と歴史が、一貫した言葉で語られているところにあります。
遠州山中酒造は2021年に組織変更を経て新体制に入り、設備投資による増産も進めています。
けれど、その一方で守り続けているのは、文政年間から続く蔵の思想です。変わるべきところは変えながら、酒の本質にかかわる部分は譲らない。
そうした姿勢があるからこそ、葵天下は“歴史のある蔵”ではなく、“いまも進化している蔵”として映ります。

いい酒を、まだ問い続ける
Craft Sake Worldで酒蔵を取材していると、技術に優れた蔵、歴史の深い蔵、物語の強い蔵に出会います。そのなかで葵天下が特別に印象に残るのは、それらがすべて山中久典社長という一人の造り手の言葉でつながっていたからです。
和釜も、40日以上の低温発酵も、そして槽搾りも、どれも“昔の方法”として残っているのではなく、「この味で届けたい」という意志の結果としてそこにありました。
手間をかけること自体が価値なのではありません。けれど、手間を引き受けなければ生まれない味がある。そして、その味に責任を持つ人がいる。
葵天下を訪ねて感じたのは、山中社長が今日も蔵の中で、「いい酒」をまだ問い続けているということでした。だからこそ、この酒には静かな熱があるのです。

[蔵情報]
蔵元:遠州山中酒造株式会社/葵天下
所在地:静岡県掛川市横須賀61
代表者:山中久典
創業:文政年間
主な特徴:和釜による蒸米、古式槽による槽搾り、40日以上の低温長期発酵、酒米ごとの個性を打ち出した商品展開。
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