
日本酒の歴史において、昭和前期は「苦難と工夫の時代」と言っても過言ではありません。特に戦時下という特殊な社会情勢の中で、日本酒文化は大きく形を変えていきました。
この記事では、昭和前期に登場した「三倍増醸酒」と、戦時下での酒文化について詳しく紹介します。
目次
戦時下の日本酒事情 ― 資源不足がもたらした変化

昭和初期、日本酒はまだまだ庶民の楽しみでした。ところが1930年代後半、日本は戦争の準備とともに国の資源を軍需産業に集中させます。米は国民の主食であると同時に、日本酒の原料でもありました。しかし、戦争が長引く中で「酒に使う米は贅沢品」とみなされ、酒造りに使える米は大幅に制限されます。
この時代、多くの酒蔵は存続の危機に直面しました。原料米が不足する中で、日本酒業界が生み出した答えこそが「三倍増醸酒(さんばいぞうじょうしゅ)」です。
三倍増醸酒とは? ― 節米から生まれた革新的な酒

三倍増醸酒とは、米から造られるもろみ(酒の元)に対して、大量のアルコールと糖類、酸味料などを加えて増量した日本酒のことです。名前の通り、米を使った酒の約3倍の量まで増やせるのが特徴でした。
本来、純米酒は米と水と麹だけで醸されますが、三倍増醸酒では米の使用量を抑え、代わりに醸造アルコールと糖類を補うことでコスト削減と量産を実現しました。これは政府の節米政策にも沿ったもので、時代の要請に応えた「苦肉の策」だったのです。
三倍増醸酒の味わいと評価
三倍増醸酒は、純米酒に比べてアルコール感が強く、甘みも感じやすいのが特徴です。
しかし、製造コストが低いため、庶民にも手が届きやすく、戦時中・戦後の貧しい食卓でも「酒のある生活」を維持する役割を果たしました。
一方で、米本来の旨味や香りは薄れがちで、日本酒本来の風味を知る人たちからは「本当の酒ではない」と批判の声も上がりました。しかし、物資が乏しい時代には、この三倍増醸酒が人々の生活に希望と安らぎを与えていたのです。
酒文化の縮小と、密造酒の蔓延

戦時中、酒造業者には生産制限が課せられ、店頭に並ぶ酒の量も減りました。この頃、密造酒が急増し、品質の悪い酒による健康被害も社会問題となります。
政府は密造防止と税収確保のため、酒造免許制度を厳格化。
また、日本酒の品質基準も整備され、戦後の酒造技術向上へとつながる基礎が築かれました。
戦後復興と三倍増醸酒のその後
終戦後も、三倍増醸酒は一時的に一般家庭に根付いたままでした。生活再建が優先される時代に、安価で手軽に酔える三倍増醸酒は「戦後の味」として記憶されています。
しかし高度経済成長が進むにつれ、消費者の舌は次第に本来の米の旨味を持つ「純米酒」や「吟醸酒」を求めるようになり、三倍増醸酒は徐々に市場シェアを落としていきます。
そして、2006年の酒税法改正により、副原料の使用量は白米重量の50%以下に変更されたため、現在は3倍までは増量できなくなりました。そのため、現在、三倍増醸酒は製造されていません。
昭和前期の日本酒文化が教えてくれること

昭和前期の日本酒は「工夫」と「我慢」の象徴とも言えます。
三倍増醸酒は日本酒業界が逆境の中で生き残るために選んだ道でした。
その歴史は、今の私たちが当たり前に美味しい日本酒を飲める背景に、幾多の苦難と努力があったことを教えてくれます。
そして今では、三倍増醸酒は日本酒の歴史を語る上で欠かせないキーワードの一つです。戦時下の限られた資源の中で、日本人の酒文化がどう生き延びたのか——
それを知ることで、日本酒の奥深さにさらに興味が湧くはずです。